退屈を凌ぐための基本的な考え方

未来では大多数派が「退屈」に苦しんで、じっとしていられず、余計なことをして、新たな社会問題を作り出していく…

本日はそんな仮説について考えてみたいと思います。

果たして未来は本当に退屈になるのかをさて置き(いやいや、さて置かないで!大事なのそこでしょ!?)、

  • じっとすることができるのか
  • 余計なことをさせないために出来ることは何か
  • 社会問題を作るのは悪か

ということを考えてみたくなります。

まず、人はじっとすることができるのかについてです。

じっとすることが難しいということが面白い実験で確認されています。米バージニア大学のティモシー・ウィルソン名誉教授が主導し、同氏の研究チームとハーバード大学で行った共同研究の中で行われた実験の一部をご紹介します。

まず何もない部屋に大人を6分から15分閉じ込めて、「じっとしていられるか」という実験が行われています。

毎度、こういう行動科学的な実験を考える人はオモシロタノシストに違いないと感心させれます。このシチュエーションを別の形で使えば、コントが書けますよね…と。なんだか横道に逸れる気が沸々と湧いてきましたが、苦渋の決断で本題に戻ります。

さて、この実験ですが、被験者の多くは、

集中力を保つのが難しく、何かに考えを集中させようとしても意識がそれてしまった

と答えた。また、楽しかったかと質問すると、被験者の約半数が楽しくなかったと答えたそうです。

別の実験では、一人で座って思考をさせられている被験者に、「この状況を抜け出すためにお金を払って電気ショックを受けられるがどうする?」と伝えたところ殆どの被験者は電気ショックを受けることを選択したようです。

これで終わらないのが面白いところです。被験者は再度、何もない部屋に15分閉じ込められ、今度は「希望者は先ほどの電気ショックを受けることができる」と告げられ、結果は、下記の通りでした。

男性被験者の67%(18名中12名)が、ひとりで過ごす退屈さを避けるために、最低1回の電気ショックを自らに与えた。また女性被験者も、1/4(24名中6名)が自らに電気ショックを施した(平均は1.47回。なお、中には15分間に190回もの電気ショックを与えた男性被験者も1名いたが、この被験者のデータは平均から除外されている。

一般論にした時に、この比率が正しいかどうかは分かりませんが、この耐久実験には性差が出ること、そして男性の方が「じっとできない人」が多いという結果には納得しちゃいました。

次に考えることは「じっとできない人に余計なことをさせないために何をするか」ということです。

ここでいう余計なことというのは自分や他人を不幸にする行為と考えることにします。かなり純真爛漫な考え方ですが「自分や他人を不幸にする人がいなくなれば万事幸福になる」ということとして話を続けます。

ここで、一旦、単純化して考えたいと思います。そもそも「じっとできる」「じっとできない」の違いは何か。

これは「じっとすることが退屈ではない(≒面白い≒楽しい)」「じっとすることが退屈である(≒面白くない≒楽しくない)」ということではないかと思います。

また「余計なことをする」「余計なことをしない」の違いについても考えてみると、やはり余計なことをするのが「面白い≒楽しい」「面白くない≒楽しくない」と思えてきます。

どうせ「オモシロタノシズムが世界を救う」って言いたいんでしょう?と結論を急ぐ人がいるかもしれませんが、もう少しお付き合いいただけると幸甚です。

「余計なことをするのはそれが面白いからだ」と考えると「余計なことをさせない」というのは無理があるように思えますね。なぜなら余計なことをするのが面白いし、楽しいのですからね。無意識にそうしてしまうのは止められないでしょう、と。

そこで少し深掘りをして、なぜ「余計なことが面白いのか」を考えてみたいと思います。

きっと最初はちょっとした余計なことだったのではないかと思います。

「小さな余計なこと」をした → 周囲がそれを面白がってウケた → 脳汁が出た → 幸福感が得られた

そのうち脳汁をもっと欲しくなり、幸福を追求していくうちに「小さな余計なこと」がエスカレートしていき、いつしか一線を越えて「大きな余計なこと」をするようになってしまった。そしてもう止まらない、そしてある日・・・。

こういうことってよく聞く話だと思いますね。逆に考えれば、この人も「脳汁」を別のことで出せると分かっていればここまで行きつかなかっただろうし、ある時点でそのことに気づくことができれば、考え方も変えられたのではなかっただろうかと思いますね。

つまり、「余計なことをしてしまう人」を別の道に誘導することは可能ではないかと思えてくるのです。脳汁の種類を使い分けると良いのではないか、とかアイデアが色々と浮かびますが、これは一つの気づきとして先に進みたいと思います。

今回の思考の旅のゴール地点も近づいて参りました(えっ?そうなの?)が、最後に「社会問題を作るのは悪か」ということについて考えたいと思います。

まず、社会問題とは何かについて考えてみたいと思います。「社会」とは簡単にいうと「人の集まり」です。もう少し詳しく意味を調べてみると下記のことを指します。

ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。

また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。

社会の範囲は非常に幅広く、

単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会まで様々である。

Wikipedia

どの範囲の人の集まりのことを言っているのかを考えて使った方がよい言葉だということが分かります。次に「問題」ですが、これは一般的には「現状」と「未来の在りたい姿」の差分を指すものです。つまり、人は未来を想像するときに問題と向き合うことになるのです。

つまり社会問題とは集団の中の不満を解消したり、より質の高い暮らしを求めたり、何らかの形で現状に満足をしない人々が未来に満足できる社会を作り出そうとする願いが作り出すものだと言えます。

私はこれ自体は悪ではないと思いますし、恐らく人間の性(さが)なのだと思います。そして、この性との向き合い方が問われているのだと考えます。

ここでの洞察は、未来を考えるから問題が生じるのであり、今だけを生きていれば、そもそも問題という概念が成立しなくなるので、社会問題は万事解決するのではないかということですね。

この洞察を考えていくとエゲツなく話が長くなりますので今回は割愛させて下さい。

では、そろそろ終着駅です。

飢えからの解放を願い、便利さを追求し、自らの能力を拡張するために様々な技術を開発してきた人類。あらゆる物事が自動化され、人間が指令しなくとも自律的に回り出す未来社会が作れる手前まで進化した人類文明。飢えからの解放が幸福の追求という形に次第に変化したわけですが、大いなる目的に合意できていないことが地球上の様々な問題を複雑にしているように思います。

その裏で巨大な機械装置が作り上げられ、それを動かすためにエネルギーを供給せねばならず、エネルギーを作るための資源が枯渇し、新たな手段でエネルギー供給を考えることになっている現在。

高度な文明は、このように
・労働から解放された人
・高度な機械
・機械を維持するために労働をする人
・その労働を支援する機械
・その機械を作る人
・その人を支援する機械
という人と機械のミルフィーユ(重層構造)になっている。そして、このミルフィーユが崩壊しないようにエネルギー(食糧を含む)と水が供給されている。

社会を動かす人も食糧と水が必要であり、こうした食糧、水、エネルギー供給の問題で争い事が起きることになることが予想できます。退屈しのぎにイッチョ戦おうか、みたいな国や軍のリーダーが出てくると収拾のつかない事態になります。

しかし、ここでの議論で大きく忘れられているものがあります。自然環境です。人類文明が自然環境の上に立脚しており、その自然環境と人類が巨大生命体である地球を構成する一部でしかないことを認識することです。

また地球の意思か、宇宙の意思により、人類文明など「秒殺」できてしまうこと。人類文明が発展できるのは、そうした宇宙や地球の意思で許された「間」の出来事で、恐らく宇宙史においては「瞬き」でしかありません。そして、今を生きていられることに感謝の気持ちしかありません。

と頭の中がお花畑状態(いや、お花畑というかカオスでしょっ!)で長々と書きましたが、言いたかったのは、ほんの一瞬の人生なので、どうか退屈だとか言わず、余計なことをせず、楽しみましょうということです(この文章自体が完全に余計なお世話やろっ!)。ということで、

Carpe diem.(今を楽しめ)

あ、終わり方が違った!ま、どっちでもいいし、どっちもいっか(ってどれのことやねん)。

それでは!

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この記事を書いた人

シゲタ ノリスケ シゲタ ノリスケ ビジネスデベロッパー、コンサルタント、オモシロタノシスト

好奇心が服を着て歩いてると言われる40代ビジネスパーソンです。オモシロタノシズムの社会実装を夢見て、今日もあれこれ考えています。

コメント

コメント一覧 (4件)

  • お花畑というと、ついスキップを連想してしまいます。
    スキップはジョギングやウォーキングと違って、ゴールを設定することなく、動くことができます。
    極論いうと、一歩も進まなくてもいいんですよね。
    う~ん、地団駄?
    あ、違う。
    そして、ワンステップで終わる方はまずいないでしょう。
    少なく見積もってもスリーステップはいくと思います。
    なんならオカワリしちゃう?
    飛び跳ねている瞬間は恐らく「無」。
    あるいは「高揚感」。
    スキップは、最低限の動力で「悟り」か「ワクワク」を得ることができる、究極のオモタノ運動会と考えます。

    やい、そこのオマエ!
    暇ならスキップでもしてな!

    • レディタダさん、心躍るコメントありがとうございます。
      「暇ならスキップでもしてな!」って2041年くらいの流行語になりそうですね。
      心沈めながらスキップって、笑いながら怒るくらい難しいですよね。
      スキップしてたら気分が勝手に上がりそうな気もします。

  • なかなか興味深い実験内容だなと思いました。
    男性は狩りに出て女性は狩りの獲物を待つと考えると性差は理解出来るのかもしれません。
    私は実はこう見えて(どう見えてます?)じっとすることにあまり苦痛を感じません。
    極度の閉所恐怖症ですので、閉所でない場所で・・・という条件付きにはなりますけど。
    私が仮に原始時代に生きていたとしたら・・・・と妄想してみると
    恐らく長い時間をかけて狩りに出るというよりは自分の狩場の範囲を決めて
    罠を仕掛けるだろうと思います。
    なぜそうするかというと恐らく好き嫌いの問題です。
    私は長い時間採れるかどうか判らない獲物を探してまわるのがあまり好きではないのです。
    結局生きるための消去法での選択だと思いますが、ある意味オモシロタノシズムなのでは
    ないかと思ったり思わなかったりどっちでもいいとばっさり切り捨ててみたり。。

    • 小野坂さん、コメントありがとうございます!

      狩猟採取時代へ思考ワープまでして頂いて、お手間をお掛けしました。
      狩場を決めて、獲物を待ってるお姿が見えたような気がします。

      私は狩りに行ったフリして、木の実を摘みに行ってるかもしれません。

      どちらかといえば、じっとするのは苦手な方かもしれませんので、この実験の被験者だったらビリッとやってた可能性が大です。
      でも考えごとをして調子が良い時はじっとしてるかもしれません。
      んー、どっちなんでしょう。

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