今の自分はありたい「私」ではない。
なりたい「私」は別にある。
そんなことを思ったり、考えたりすることはあると思います。
この件に関する、私なりの考え方を共有しますね。
まず「私」というものが、どのように作られているか。詳しくは慶應義塾大学大学院教授で同学ウェルビーイングリサーチセンター長をされている前野隆司さんが執筆された「脳はなぜ「心」を作ったのか: 「私」の謎を解く受動意識仮説」(ちくま文庫)を始めとする同氏が書かれた文献に記載があるので見ていただきたいです。
前野さん曰く、「私」=受動的、「自分」=世界と繋がっているということです。「私」とは意識している部分で「自分」とは無意識を含む全体です。この「意識」と「無意識」に関するフレームワークは、ちょうど天動説が支配する世の中で地動説が唱えられた当初のごとく、万人に理解されない考え方だと思います。しかしながら「意識」がどのようなものであるか理解すると不思議とこの考え方が受け入れられるのです。
これも同書の内容を要約したものですが、私たちは何かの行動を起こそうとした時に意識して動くものだと思っています。例えば、歩こうと思って足を前に出すという動作は「私」が歩こうと思って足が動いている状態だと考えていないでしょうか。実際には逆で足が何者かの指令で先に動き、「私」が後から「歩こうと思った」と説明しているに過ぎないと証明されたのです。
このメカニズムをあらゆることに適用して考えていくと、今の「私」が思った通りではないことが理解しやすくなると思います。そして同じメカニズムで「私がある」という状態を捉えると、「動いた結果を認識しているだけ」と理解できます。全て「過去のこと」なのです。では「未来のこと」は何が決めるのでしょうか。少なくとも「私だけ」ではないと理解できないでしょうか?「私」ではなく「自分」です。この「自分」は先に書きましたように「世界と繋がっている無意識の領域」です。
無意識の領域が「私」によって発見されるのは先の「歩こうと思った」の事例の如く、行動がトリガーとなります。「私」はむしろ行動のブレーキ的な役割を果たすことが多いことにも気がつかないでしょうか。行動ブレーキも安全性を確保するためには必要でしょうし、急ブレーキがかえって危険を招くことも理解できるでしょう。ブレーキの存在が悪いのではなく、あくまでどのように機能しているのか、タイミングとバランスの問題と考えられるでしょう。
では、結びに入ります。
未来に向かって私のありたい姿を描くそして行動するためにはどうすべきか。まず「どうすべきか」という考えを放棄することでしょう。「すべき」という呪文は今を起点に無数にある可能性を一点に絞り込む「制約の呪文」です。そして、この呪文はなかなかに強力です。この呪縛から解放されると次第に力が抜けていくでしょう。そのまま眠りについても良いし、妄想の世界に耽っても良いでしょう。そのうちに行動ブレーキが緩くなってくると思います。そうすると自然とありたい姿の実現に向けて歩き出しているでしょう。
生まれた瞬間から自分はありたい姿に常に猛進しています。しかし、いつしか気付かぬうちに意識が行動を決定すると思い込んでしまい、考えて行動するようになりました。これを解きほぐして、元の行動様式に戻していくということです。思考によって未来に制限を掛けてはいけないということです。では人はなぜ考えるのか。それは意味がないのか。意味がないことはないと考えています。思考には思考の意味がありますのでそれはまたの機会に。
それでは。
コメント
コメント一覧 (2件)
生まれた瞬間誰もが「オモシロタノシスト」であるとするならば、もっともっと「オモシロタノシズム」に興味を持っていただけるかしら?
誰しも心の中では興味あるんですよね。ただ、行動を起こす前に考えてしまう癖が抜けない。
変化をナッジしていく、マインドセットのリフレーミングしていくのが、このコラムの役割かと思っています。